- 2009年1月12日 23:09
- education
今日はあんまり考えがまとまってない話なので、話がそれるかもしれませんので短めつもりで…(つもりですけど)
昨日は成人の日でしたね。毎年、どこの成人式が荒れたっていうニュースが、季節の話題になったのは何時の頃からだったかなとか考えていました。すなわち大人になるという儀式が成人式ですが、本当の意味で、自分が本当に大人なったと言い切れるようになったのは、いくつになってからかなぁと思います。考えてみればみるほど、まだどこか大人になりきれてないような気がするのです。
大人になるってなんでしょう
「自分の言葉や行動に責任が取れる」「経済的、精神的に自立出来ている」のがまずはわかりやすい大人の定義でしょう。さらに「社会的な役割を担える」「他人の面倒を見られるか」といった事も大人として必要なことだという意見もあります。
そういう意味では、僕も少しは大人の仲間入りをできているのかなと思います。曲がりなりにも会社を経営して経済的に自立し、子供を育て、税金も納めている訳ですから。ただ精神的に自立できているかは、はなはだ微妙ではありますが….
成人すれば大人になれるというほど、甘い世の中ではない
そんな言葉が、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養 成人の日スペシャル」でやってました。極東ブログさんでも取り上げられていましたが、すごく大人になるということを言い当てている言葉だと思います。僕もいつ大人になったかもと自覚したんだろうと番組をみながら考えてしまいました。
しかしそう自覚できるようになったのは、ごくごく最近のことです。父親が退職し、その後、自分に子供ができ、父が突然亡くなった事をきっかけに、母は叔母のいるシルバーホームに入居することで生まれ育った家を人に貸すことになる。そして子供は育ち、自分が考えてもいなかった教育費に悩む日々がやってくる。
そんな出来事が年次行事のように次々と起こっていく時期を経ながら、自立した大人になるしかないなと覚悟をするのに、僕は恥ずかしながら結構な時間を費やしてしまいました。今の妻がいなければ、僕はちゃんと大人になる覚悟が出来なかったかもしれません。
多くの成人は、まだまだ自立したり、責任を取れたりというにはほど遠いと思います。いつかはいなくなる親の傘のことを心配し、まずは自分が自立できるようになる道を探すことで精一杯でしょう。昔のように、親という傘が、会社という傘にかわっただけで、自立したと誤解できるような牧歌的な時代ではもうないのです。
外が暴風雨なのに、好きこのんで外に出たいという雛はいないでしょう。そうして老後の介護の心配をする親と、出来る限り傘の下にいたい子は、お互いに子離れ、親離れしなくなっていく….。僕のまわりにもそんな人はたくさんいます。
一人で大人になるのには、厳しい時代なのかもしれません。でもいつかは傘はなくなります。就職という傘だってあてになりません。だからこそ、だれかと一緒に大人になってください。経済格差より恋愛格差って言葉があるようですが、経済力があっても自立できない人がいるように、二人で暮らしたいっていう気持ちで自立できる若いお金のない夫婦もいるわけです。この人とだったら、ホームレスになっても笑って一緒にいれる。そんな人を見つけられれば、その時が二人で大人になれるチャンスだと思うのです。
大人になりたくないとき
そんな自立した大人になったとしても、あ、こういう大人ってやだなと思う時がままあります。
例えば「周囲に対して思慮深くなる」ことは、廻りの気持ちをくみ取って、できるだけ多くの人に利益があるように尽くしたり、理不尽な中傷に、すぐにかっとなることなく対応できるなど、「この人、大人だなぁと」本当の意味で大人として周囲から認めてもらえるもっとも大切なだと思います。
しかし行き過ぎた配慮は、意見を硬直化させたり、赤信号をみんなで渡れば怖くない的な悪事に、いつのまにか鈍感になってしまう事にもなりがちです。
大人には大人のいいところがあるように、子供には子供のいいところがあります。純粋な正義感とか、やりたいことにまっしぐらになれる情熱とか。
聖書には「悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(コリント人への第一の手紙)という言葉あるそうですが、人は、大人になりきるのではななく、いつまでも子供のままでいなければならない部分って確実にあるように思うのです。
公共マナーが守れない中高年や、私利私欲に走る権力者の存在を考えると、表面だけが大人な人ほど、困った存在はないように思いますね。
保育と教育の定義を変えよう
話が飛躍するので、詳しくはまた別の機会にまとめてみたいと思いますが、これまでの話を読み直してみると、どうやら成人になるということと、大人になるということは違うことのようです。
「大人になる」=「就職して自立する」のような、富国強兵時代のように、単純ではいかなくなったこれからは、幼児だけに行われている保育の概念を、すくなくとも18歳から、場合によっては最初に就職しておちつく25歳ぐらいまでに広げるべきではないかと考えていました。
もちろん、それは保育園で行われているようなものとは全く違うもので、どちらかというと、高校卒業と大学入学の間に、ボランティアを体験させようといったような話と近い考え方です。たとえば、品川区の児童館が、中高生の夜のバンド活動にも貸し出しているような活動のように、地域社会や年齢の違う人たちとふれあう事が、学校での教育以上に必要なことの様に思うのです。
そしてこの期間の教育は、保育の範疇として考え、原則費用を無償とするのが、貧困の連鎖や、機会均等のためにも必要な事だと思います。
一方教育は、労働力の流動化や、自分のライフスタイルにあった働き方を担保するためのシステムとして、子供のためのものという考えたから、生涯にわたって必要なときに受けられるものとして整備するべきだと思います。教育、就職といったサイクルを、新卒1回だけに賭けるのではなく、いつでもステップアップすたり、違う方向に転向したりということが出来る為のものであるべきです。
大人になる準備は保育で、大人は、大人であり続けるために自らの意志でいつでも教育を受けられる。そんな社会であれば、何時までも大人になりきれない若者や、見た目だけの大人はずいぶん減るような気がするのです。
うーん、全然短くないですね… まだまだ大人になりきれてないのかなぁ
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