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デザイナーである前に

  • Posted by: tomix
  • 2009年8月10日 01:50
  • design

342284895_24f48a6f1e.jpgのサムネール画像

(CC)odysseygate

第2回HCDNetサロン「Webデザインと人間中心設計 - もの作りとしてのWebデザイン」にいってきました。

今回は長谷川さんがモデレーター、パネリストには、AXISの宮崎さん、元IBMで千葉工大の山崎さん、イメージソースの小泉さんという顔ぶれ。ウェブ作りにも人間中心設計って必要だとおもうんだけど、業界内であまり話題になってないよね。というコンセント長谷川さんという問題意識が、今回のテーマのキッカケになったそうです。

パネルディスカッションの内容自体は、実績紹介をだまって聞いてるようなカタチになってしまい、ボクがききたかった「Webデザインと人間中心設計」の関係性そのものを深く掘り下げるようなディスカッションが聞けなかったのはちょっと残念でした。

とはいえ、個々のプレゼンテーションの行間には、とても共感できる、また深く質問してみたかったテーマがありました。その辺を、ディスカッションの内容をまとめるというより、話を聞いていて、自分の中でひっかかったり、思いついたりした問題意識を忘れないうちにまとめてみたいと思います。

スケッチとプロトタイプ

千葉工大の山崎先生のお話から。アメリカのデザイナーは、スケッチからデザインを始めるけど、ヨーロッパのデザイナーは、いきなりリアルなプロトタイプを作るとのこと。

アメリカのデザイナーは、センスでデザインするタイプと、理論でデザインするタイプに分かれるけど、ヨーロッパのデザイナーはセンスでデザインすることにもつながるらしい。(ちょっとこの辺はうろ覚え)

これはデザイナーの指向性というより、アメリカ、ヨーロッパの企業とデザイナーの関係の違いがあるからかもしれません。アメリカは、デザインも受託ビジネスであり、対価はデザイン「作業」に対して支払われる。デザインの決定権は顧客にあって、おそらくコンペティションが行われる。だからコンペのためにもスケッチを通した確認、決裁というコミュニケーションが発生します。スケッチはカタチにしてからの出戻りというようなロスを避けるために行われているというのは、自分の普段の仕事をかんがえるとよく分かります。

しかし、スケッチを見せられる企業側は、そのスケッチで本当にデザインを評価し、決裁する事が可能なのでしょうか? またスケッチをつくったデザイナーは、スケッチだけで本当に、評価にあたいするデザインを提案できるのでしょうか?

一方、ヨーロッパのデザインは、企業がデザイナーという「人」に依頼し、ビジネスのパートナーとして委託する。よってデザインの対価は、売り上げが発生したロイヤリティとして支払われる。すなわちリスクもリターンもともに背負う立場になる。デザイナーは、企業の決裁を仰ぐためのデザインという無駄な事をするより、早く市場にそれを問うことをしていかないと、双方ともビジネスにならない。ゆえにすぐにプロトタイプを作るということでした。

うろ覚えですが、深沢直人さんも、柳宗理さんも、デッサンよりプロトタイプをすぐに作るという話を聞いたような気がします。

2次元のコミュニケーションであれば、スケッチ=プロトタイプとなりますが、プロダクトのような3次元や、ウェブやインタラクションのようなX次元のデザインの場合、カタチにしてみないと分かりません。HCDのペルソナ、シナリオ、プロトタイピングというと、その方法論ばかりが目立ちがちですが、よくよく考えてみれば、優秀なデザイナーなら、それを手法として意識的に行っているかは別として、行っている事そのものだと思いました。

むしろ自分が思うのは、アメリカのような(また日本も同様な)、受託としてのデザインビジネスにおいても、スケッチではないコミュニケーションの方法として、HCDが求められているのではないかという問題意識です。

センスとアーキテクチャ

とかく一般的には「デザイン」=「美しさ、感性、センス」と思われてる事に対して、いやデザインも「理論、手法、思想、(アーキテクチャ)」だという主張があるけど、どちらが正しいということではないんじゃないかという話を聞いてこんな事を思いました(アーキテクチャという言葉はボクの勝手な後付です)。

理論、手法でデザインを開発していく課程でも、生活体験や、経験から判断しなければいけない場面もあるし、デザインセンスが優れているといわれている有名なデザイナーであっても、普段のデザインの課程では、いろいろな理論や手法をまなび研究しながら、それを自分のなかでの方法論として体系作りをしているもの。

たとえばペルソナ「法」と称して、ユーザー像を設計をすることも、デザイナーが普段の何気ない生活のなかで人間観察をしていることも、人間を中心にデザインをする行為としては同じだと言うことです。

ではなぜ「人間中心設計」だけに限らず、なぜ最近デザインの現場で理論や手法の話が多くなっているのか? 考えてみると2つ理由が考えられると思います。

ひとつは、デザインがビジネスとして成立するには、その方法が個人の属人性に基づいたブラックボックスだと、ビジネスにしづらいし、提案するデザインの意味や正しさというものを、顧客にたいしてきちんと説明できないという理由。

もうひとつは、デザイン「会社」として、担当者の違いによる品質の違いが許されなくなってきていること。しかしセンスはどうしても属人的なものになってしまうので教育しづらい。そこで人ではなく方法論によって品質を確保しようという理由です。

どちらも、根本にある視点は、デザインを個人の「能力」から「手法」にうつすことによって、摩訶不思議な秘法から、再現可能、検証可能で、標準化された技法にしようと言うことだと思います。デザイン行為を工業化的な発想でとらえることでもあり、プロダクトデザインや建築といったジャンルから広がっていきたのは、当然のことです。

ポイントは、その事によって、デザインの力を求めている顧客自身が、主体的にデザイン行為を行えるということです。デザインが企業の将来を決める重要な要素であるのは疑いもないのに、それを生み出すのが秘法では困るわけです。できれば自らが主体的にデザインに関わり、評価し、決定していく必要がある。デザインが秘法であっては困るのは、むしろクライアント側であり、デザイン理論や手法に注目が集まるのは、社会や時代の要請なのだと思います。それはなにもプロダクトだけの世界の話ではなく、ウェブを含めたコミュニケーションデザインの領域にも要求されているのだと思います。

要するにデザインを共有し、コミュニケーションするためツールとしての「手法」の「体系化」なわけです。すなわちデザイン行為の言語化ということ。デザインの場に顧客を巻き込むために、デザイナー自らがデザインの方法論を体系化し、言語化する試みを行い、顧客が主体的にデザインを生み出す場に関わり、むしろデザイナーはその場をファシリテーションしていく立場となっていってはどうか。そんなことを考えました。

たとえば宮崎さんが所属されるAXISには、「デザイン戦略の意志決定支援」というサービスがあります。企業としてはデザイン活動も投資行為ですから、投資対象としての意志決定、投資後の効果測定といったものが、数字として比較判断できることが求められる….そう考えるとデザインのプロセスに顧客を巻き込み、そのプロセスマネージメントを専門家たるデザイナーが行うとういうのは、自然な流れとなってくるように思えるのです。

AXISさんがどのようにこのサービスをやっているのか…すごく気になります。(あこがれのAXIS ! この歳じゃ転職できないだろうしなぁ…)

人間中心にデザインを考えるということはどういう事なのだろう

人間中心にデザインを考える「技法」として、人間中心設計の様々なツール、ペルソナや、シナリオといったものが考えられていますが。これらは、顧客に対して標準化されたツールとして共有するには、優れていると思います。しかし、その分野のプロフェッショナルとしては、そのようなツールだけに頼っていたのでは、ツールを学習した顧客との差がなくなってしまいます。

ではそもそも人間中心とはどういうことなのか、考えてみました。

最初「人間」という言葉に、少し引っかかりがありました。どうしても「人間」というと「工学」という言葉をくっつけたくなります。その言葉の背景には、手の長さはこのくらいだから、シンクの幅はこのくらいが適切だよね。というような標準的な人間規格から算出されたユーザビリティを思い浮かべるからです。この場合の人間とは、身体という名の装置とも言うべきものでしょうか。

インタフェースデザインの領域でも、仮想的なボタン形状にも、それが形状としてクリックされるものであるというアフォーダンスがあるので、認知的にユーザビリティがよいという考え方があります。たしかにこれは身体的な問題でしょう。

しかしウェブの場合、ハイパーテキストのインタフェースであると同時に、コンテンツでもあります。個人的にコミュニケーションのような、問題を身体的に考えるということに、幾分かの違和感を感じていたのですが、身体も、人間と環境を結ぶインタフェースであり、手の動きも、心の動きも、身体というインタフェース通して行われるモノだと考えるなら、どちらも人間と考えてもよいのだなというのは、ひとつの発見でした。

むしろ、個人的に「人間」という言葉が、たとえばモジュロールのような、ロゴス的な人間の標準形態に誤解していただけで、人間中心設計でいうところの、ペルソナ像は、むしろボクの語彙のなかでは「ユーザー」と言う言葉で表していただけの問題だったのかなと。(個人的にはひとつの成果なのです)

「ユーザー中心に考える」とは、体だけでなく心の動きも含んだ、固有の身体をもった「人間」を「想像する」ということ。それが人間中心に設計すると言うことの基本ではないかと考えます。

想像するために必要なこと。

このイベントにくる前、少し時間がったので、外苑前の本屋さんに立ち寄りました。そこで今回の話にもつながるような、ちょっと気になる本と出会うことができました。ドラフトの宮田さんという方について書かれた「デザインするな」という本です。

宮田さんは、ドラフトのデザイナーたちに、常に「デザインするな」と言う言葉を投げかけるそうです。

ともすればデザイナーは、こだわればこだわるほど「デザイン作業」の細部に引きこもってしまいがちです。その事で、デザインが本来果たさなければいけない事が見えなくなってきます。デザイナーである時間が濃密で長くなるほど、ユーザーである時間(すなわち人間である時間)が少なくなり、デザインを受け取る相手のことや、顧客が求めてい本来の目的が想像できなくなります。それではどんなに優れた表現であっても、存在する意味がなくなってしまいます。

印象的だったのは、ドラフトの庭に生えている木が変化したことに、スタッフのデザイナーが気がつかなかったという下り。デザインをする生活の中でも、そういった環境の何気ない変化に気がつかないのでは、デザインの本質を掴みきれないというような話でした。

なにぶん立ち読みだったので(買えよ!おれ)、正確じゃないかもしれませんが、AXISの宮崎さんの、セールのときにデザイナーも店舗に立つお話や、山崎先生のリチャード・サッパーのスタンドTizioのデザインのキッカケのお話ともつながり、とても印象的でした。

結局デザイナーは、デザイナーである前に自らが人間であり、ユーザーでなければ、本質的なデザインなんてものは出来ないということです。その為には、たまにはデザインをしないで、ユーザーである時間、人間である時間を大切しなければ、人間を想像してデザインをするなんて事は出来ない。なにか話がすべてつながったような気がしたのでした。

顧客とのコミュニケーションのためには、デザイナー自身が、デザインを言語化することはとても大切な事だと思います。しかしその前にデザイナーは、人間や環境をイマジネーションできるためにも、自らが人間であり、ユーザーであることがこれからはとても重要になってくるのではないかと思ったのでした。

セミナーの趣旨とは全然違ったのかもしれませんが、いろんな意味で収穫が大きかったセミナーでした。これを機会に、HCDNetにも参加してみたいと思っています。

宮崎さんとは、こんな話もしたかったのですが、懇親会で犬ショップ(シュナバニ)の話しかできなかった…..妻いわく、通販ショップ時代からのコアユーザーだそうで、別方面でもお世話になっていたのでした。(妻の実家も含めると、3匹のシュナウザーがお世話になっているのです)

    

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